大阪湾について
(昭和44年6月淀川河口沖で捕獲したホッキョククジラ石津漁港で陸揚げ)
大阪湾の漁業の歴史は古く、また進んだ漁労技術を持ち、
西は九州の五島列島・対馬に、東は房総にまで進出して、
漁業集落の形成や、漁業の発展に寄与したことが古文書に記されています。
また、大阪は、淀川や大和川など大小の河川に育まれた肥沃な農耕地と、
奈良や京都に近いという地理的条件にも恵まれ、
さらに各地から魚が多く集まったことから、優れた料理方法があみだされ、
天下の台所として重要な役割をも果たしてきました。
それが、今日の「食いだおれの街」の礎となっています。
大阪は、「なにわ」って言うけど、「魚庭(なにわ)」とどういう関係があるの?
漁を行う打瀬(うたせ)舟:昭和20年代
【写真提供:岸和田市】
大阪の古称が「なにわ(浪速・浪花・難波)」であり、
大阪市の市標が「みおつくし(澪標)」であることから
見ても、大阪が海と結びついた土地であることは、
わかると思います。
この言葉の漢字表記の「浪速」、「浪花」、「難波」から
見れば、「浪が速い海」、「浪の花が立つ海」、
「航海するのに難しい波が立つ海」とも
取ることができますが、果たしてそうでしょうか。
そこで注目したのは、旧攝津国の式名社に
「伊和(いわ)志(し)豆(ず)神社(じんじゃ)」があるが、
この神社の名、それは「鰯津」、すなわち、
「鰯の水揚げが多い港」という意味と思われるからです。
このことから見ても「なにわ」とは「魚庭」、
すなわち、「魚(な)がたくさんいる海」 と見るべきではないかと思われています。
大阪湾って、なんで、「ちぬの海」って呼ばれてるの?
大阪湾の古称を、「茅渟(ちぬ)の海」といいました。
この「ちぬ」はまた「血(ち)沼(ぬ)」とも書かれ、
第一代の天皇とされている神武天皇の皇兄の
「彦五(ひこいつ)瀬(せの)命(みこと)」が戦傷を受け、
その血がこの海に流れた故事に
由来するといわれています。
また、別に、「ちぬ」とは「珍彦(ちぬひこ)」という神の名にも由来します。
「珍」は「うず」ともよみ、それは「高貴な」ということで、
「珍彦」は瀬戸内海一円を支配した神でした。
別名を「神知津彦(かみしりつひこの)命(みこと)」とも、
「椎根津彦(しいねづひこの)命(みこと)」ともいい、
前者は「支配権をもつ王」、後者は「椎の舵を持つ王」です。
この神は『古事記』によれば、神武天皇東征の際、
旧豊後国(大分県の一部)の佐賀の関まで出迎え、
水先案内をした神とされています。
そして、その功により神武天皇から「椎根津彦(しいねづひこ)」の名をもらい、
旧大和国(奈良県)の「国造(くにのみやつこ)」に任ぜられたといいます。
この神が支配した瀬戸内海のうち、特に大阪湾の海は、
その神の名をとって「ちぬの海」といわれたのでした。
また、「ちぬ」とは「黒鯛」のことをも指しますが、
それは、この魚が「ちぬの海」で獲れる代表的な魚だったと考えられます。
大阪湾とは
春木海岸での地曳網:昭和20年代
【写真提供:岸和田市】
堺(出島)の漁獲風景:昭和30年頃
【写真提供:堺市】
大阪湾とはどういうところか、人々は大阪湾を
どのように利用し、どんな恩恵を受けているのでしょう。
昭和30年代頃までの大阪湾は、
多くの人が海水浴を楽しんだり、
カニのいる磯・干潟遊びに訪れるなど、
人々にとって今よりずっと身近な存在でした。
戦後復興・経済成長期には、
主に浅海域における埋立てによる
土地造成と防波堤の整備により
物流・生産機能が強化され、
日本の高度経済成長を大きく支えてきました。
また、背後に集積する人々の生命、財産を守るため、
防潮堤などの海岸保全施設の整備も進められ、
安全・安心な国民生活を支えてきたのも大阪湾です。
一方、これらの整備により、
砂浜などの
自然海浜、藻場・干潟などの浅場等が縮小・消失し、
海水が停滞しやすい水域が発生。
背後集水域の人口増加、産業発展は、
水質汚濁負荷やごみの排出の増加を引き起こし、
大阪湾の水質悪化、底質悪化、景観悪化をもたらしました。これらの環境変化は生物生息・生息環境を悪化させ、
生物多様性の低下を招いています。
また、人々の海との触れ合いの場を減少させた。これまでにも、このような問題に対し
様々な取り組みが実施されてきたが、取り組むべき課題は多く残されています。
また、近年の産業構造の変革の影響による臨海部の低・未利用地の発生、
廃棄物最終処分場の不足などの問題もあります。
今後、大阪湾の再生に向けて、多様な主体の連携によって
海域環境改善のための取り組みを積極的に実施していくことが重要と私達は考えています。
深刻な環境問題の発生
道端や河川敷に投棄されたゴミは
川を通じて海へ流れ込みます。
大阪湾沿岸域の地形は後背地における
社会経済活動の発展に伴い大きく改変され、
昭和初期までに広く存在した
浅海域や自然海岸は大幅に減少し、
市民が海と触れ合うことのできる
親水空間や、生物多様性を確保する上で
重要な干潟や藻場が失われてきました。
また、大阪湾は、集水域に大きな
人口・産業集積を有する閉鎖性海域であり、
陸域からの汚濁負荷の流入が大きい上に
汚濁物質が蓄積しやすい状況にあることから、
水質汚濁が特に湾奥部において慢性化しています。
海底へ沈んだゴミは海の生き物達の生息に
多大な影響を与えています。
これまでにも、内陸部より流入する
環境負荷の削減への取り組みが行われ、
海域環境を改善する各種施策も進められてきました。
人間活動に起因する
汚濁負荷量の軽減については
一定の成果が見られたものの、
水産生物など生物の生息に
多大な影響をもたらす
赤潮や貧酸素水塊は現在も発生しています。
大阪湾の環境改善に向けて
大阪湾で生じている、「水質汚濁の慢性化」、「生物多様性の低下」、
「親水性の低下」、「浮遊・漂着・海底ごみの多さ」といった問題を改善するためには、
効果的な施策を講ずる必要があります。
このため海域環境を改善するための技術を導入した
環境改善施策が大阪湾において実施されつつあります。
今後、大阪湾の再生に向けて、多様な主体の連携によって
海域環境改善のための取り組みを積極的に実施していくことが重要です。
平成16年3月26日に公表された「大阪湾再生行動計画」(大阪湾再生推進会議)においては、
大阪湾の水環境の現状を踏まえ、
- 大阪湾再生に向けての湾全体の目標の設定
- 湾奥部を中心とした重点エリア・アピールポイント等の設定
- 目標達成のための陸域負荷削減施策
- 海域における環境改善 対策及びモニタリング(監視)の実施
などの関連施策及びその計画的な推進について明示されています。
【関連ページ】 海底耕耘の風景
写真で見る大阪湾の変遷
昭和20年代当時の岡田漁港
【写真提供:岡田浦漁協】
大阪湾はこれまで、大阪湾(面積:約1,450k㎡)の
東半分約648k㎡の整備海域を対象に、
各種の漁業整備を進めてきました。
戦後、大阪府は、昭和25年度の大阪南部での
自然石投入を手始めに、コンクリート製あるいは
鋼製の漁礁投入などによる「漁獲の場」の
整備を主に行ってきました。
大阪湾に点在する12の漁港も、
古い歴史のなか、様々な変貌を遂げてきました。
懐かしい漁港の様子を写真でご紹介します。
堺(出島)漁港
臨海工業用地埋立てによる新漁港の建設当時
埋立て前の旧港も見えます。
平成3年度には埋立地内の臨港道路を建設し
現在に至っています。
石津漁港
物揚場等の施設はなく、
背後に田園が広がっていました。
平成10~12年度には局部改良で物揚場を建設、
今もイワシ漁が盛んです。
高石漁港
北防波堤建設前の様子。
岸和田漁港
岸和田鉄工団地造成事業と並行して
漁港施設の整備が進んでいました。
昭和52~62年度に係留施設の拡張(前出し)を
行いました。いわし巾着漁業等が盛んで、
水揚量が府下一位の漁港です。
佐野漁港
ポンプ式浚渫船による埋立作業中。
関空へのアクセスである阪神高速の建設に伴い
漁港を沖出しする移設事業が行われました。
本漁港は漁業者数が府下一位です。
佐野漁港(食品コンビナート地区)
コンビナート造成中の佐野漁港。
遠洋漁業の衰退や流通システムの変化等から
「食品コンビナート」として定着しています。
田尻漁港
松並木に囲まれた田尻川河口の漁港。
物揚場等の漁港施設を大幅に拡充しています。
岡田漁港
のどかな田園地帯が広がっていました。
昭和56~57・60年度の局部改良事業で
物揚場の改良を行いました。
西鳥取漁港
当時は船揚場だけでした。
今もノリ養殖が盛んな漁港です。
下荘(しもしょう)漁港
物揚場改良前の風景。
物揚場等の漁港施設を大幅に拡充して
平成4年度に完成し、現在に至っています。
淡輪(たんのわ)漁港
弓状に広がる船揚場が印象的です。
大阪湾南部の機船船びき網漁業の
根拠港の一つとなっています。
深日(ふけ)漁港
当時から大阪南部の中核漁港として
賑わっていました。
平成6年度の漁港環境整備事業において、
府下における最初の公衆トイレを建設。
小島漁港
明治以前から天然の良港であったと
伝えられています。
明神崎に群生するウバメガシは昭和45年、
府の天然記念物